パレスチナ関連文書ライブラリー

ガザの忘れられた犠牲者/2014年8月9日

■拡散歓迎■

京都の岡真理です。

シリア内戦で国を追われ難民となった者は200万以上と言われています。その中には、66年前、イスラエルの建国に伴う民族浄化で、故郷パレスチナを追われて、難民としてシリアに暮らしていたパレスチナ人も大勢います。彼らは再難民となって、隣国のレバノンやヨルダンに逃れています。

昨日、東京大学で、日本中東学会の主催で、ガザの事態をめぐり緊急研究集会が開催されました。そこで基調報告者のお一人であった、パレスチナ子どものキャンペーン代表の田中好子さんが言っておられたことですが、ヨルダンは基本、シリアからのパレスチナ人の難民を受け入れていない、そしてレバノンは、シリア人難民には課せられないのに、パレスチナ人難民からは入国時に1人20ドルずつ徴収しているのだそうです。

それをうかがい、イラク戦争の翌年、2004年の夏、ヨルダンを訪ねたときのことを思い出しました。

イラク戦争でも、多くの難民が国外に逃れました。しかし、イラク国境は通過したものの、ヨルダン側が入国を拒否したために、砂漠の中のイラク・ヨルダン国境の緩衝地帯(ノーマンズランド)に、何か月も留めおかれている者たちがいました。パレスチナ人でした。

パレスチナ人であるがゆえに国境のはざまで翻弄される者たち。以下、アラー・オーデの「ガザの忘れられた犠牲者」をご紹介します。

原文:Mondoweiss The forgotten victims of Gaza / Alaa' Odeh

ガザの忘れられた犠牲者

Alaa' Odeh/アラー・オーデ
Mondoweiss/2014年8月6日

パレスチナ人は、保障や安定など基本的権利を求めて家を離れるが、海外では、パレスチナ人というアイデンティティゆえに[入国]拒否をはじめ、一貫して数々の障害に直面する。戦争が起きているあいだは、パレスチナ人は、イスラエルの暴力と抑圧を遠くから見つめながら、[自身のための]機会を見つけようと闘う。これは、ひとりの、そのようなパレスチナ人の物語だ。

ムハンマドの物語

ムハンマドは27歳の弁護士だ。ガザのシュジャイヤ地区出身。7月20日の明け方、集団虐殺があり、70名以上が亡くなった地区だ。彼はガザを美しい土地だと言う。国連によれば、170万以上の人々が住んでいる。歳月とともに、ガザの人々は、制裁に耐え、絶えざるイスラエルの抑圧と戦争に耐えることで、ひとつに結ばれた家族になった。ガザの人々にとって、誰の死であろうと、彼ら自身の喪失であり、言葉では言い表せない痛みである。

ムハンマドは奨学金を得て、アラブ首長国連邦(UAE)で法律を学び、クラス・トップの成績で卒業した。彼は、ガザに戻ると、仕事を見つけ、ガザで人生を築きたいと思った。だが、不自由な経済のもとで安定性はほとんど望めなかった。

ムハンマドは2014年初頭、ヨルダンの首都、アンマンで働くべく、ガザを離れた。カイロ空港で、ヨルダンのヴィザが下りるのを2か月ほど待ったあと、アンマンにやって来た。そして、ヨルダンの法律事務所で3カ月、無給で働いた。6月初め、ムハンマドのヴィザが切れると、法律事務所は彼の就労ヴィザを申請するのを拒否した。

彼はガザに戻らざるをえなかった。カイロに飛び、ガザとエジプトの国境にあるラファの検問所に向かった。そこからガザに入るためだ。だが、検問所は閉鎖されていた。エジプトが国境を開放するのを7日間、待ったが、ガザに入ることはできなかった。ムハンマドはエジプトに入ろうとしたが、エジプト当局は彼の入国を拒否した。彼はアンマンに送り返された。そこからカイロに飛んだためだ。だが、ヨルダン入国も拒否された。ヨルダンは彼にヴィザを発給しようとはしなかった。

ムハンマドは、すぐヨルダンを離れた方がいいと忠告され、ドバイに飛んだ。もう一度、UAEに入ろうとして。だが、ヴィザがないため、入国を拒否された。ドバイの空港でお金もないまま20日間、過ごしたあと、個人的に連絡して、ドバイのある会社を通して観光ヴィザを申請した。空港を離れることはできたが、国にとどまっていて良いのは、わずか30日間だけだった。またも、彼は、ごく基本的なものを買うお金さえなく、未来は不透明だった。

ムハンマドはラマダーン月を、ラース・アル=ハイマ[UAEの首長国の一つ]で移民労働者たちに囲まれて過ごした。先月、ムハンマドは働いて、就労ヴィザの申請を交渉した。ドバイに拠点を置く貿易会社がムハンマドに法律顧問の職を申し出て、彼の就労ヴィザの申請をしてくれた。しかし、結果は拒否だった。その理由は、彼がパレスチナの市民だったからだ。

ありふれたパレスチナ人の物語

ムハンマドの物語は悲劇的で、結末がどうなるかも分からない。人生の安定と保障を見つけようとしながら、しかし、パレスチナ人であるために、彼が出会うのは障害ばかりだ。戦時には、なおのこと辛い。彼は、パレスチナとパレスチナ人に対するイスラエルの抑圧と占領の忘れられた犠牲者の一人だ。パレスチナ人が属する国は、国際社会のいくつかの国では、国として認められていないのだ。パレスチナ人は、しばしば、どこに行こうとしても次から次へと拒否されるのだ。

先週、ムハンマドの話を聞いた私は、すぐにそれをヨルダンとUAEの友人たちの強力なネットワークでシェアした。そのほとんどが離散パレスチナ人だ。彼の話を聞いて、驚愕した者はひとりもいなかった。誰もが、何とかしてムハンマドが安定するのを助けようとした。そして、彼の移動を助けるために基金を募り、その一方で、彼のために仕事、あるいは少しでもマシな寝場所を探して、UAEの人々と彼を繋いだ。

ムハンマドのような、プロテクティヴ・エッジ作戦の忘れられた犠牲者の多くは、ガザにはいない。ムハンマドは、ガザが破壊され、通りや彼の子ども時代の思い出が虐殺されているのを遠くから眺める。ガザで現在進行中のイスラエルによる虐殺を眺め、ガザにいる友人や家族と連絡をとる。ガザの息子として、ムハンマドが家と呼ぶ、ガザの人々とその土地と彼を結びつける強い絆ゆえに、イスラエルによってガザに加えられる暴虐非道や民間人の死、とりわけ生きる機会さえなかった子どもたちの死を聞くたびに、彼は怒りと痛みとフラストレーションを募らせる。ムハンマドが今年の初旬、家と家族のもとを去ったとき、家に戻れなくなり、家族の幾人かには二度と会えなくなろうとは思ってもいなかった。プロテクティヴ・エジ作戦は、幼い子どもたちも含め、彼の家族や友人たちの多くの命を奪った。

ムハンマドは自分の将来を思い描こうとするが、フラストレーションが日に日に募るばかりだ。「ぼくは人間として自分の権利が欲しいだけなんだ!」「ぼく自身の権利がなくて、どうして弁護士ができる?どうやって他人の権利を擁護できるんだ?」ムハンマドは、1カ月後の自分の未来がどうなっているか自問する。ほかの国々からこんな拒絶に遭うほどの、いったいどんな罪を自分が犯したのかと彼は問う。彼はただ、生きるチャンスが欲しいだけなのに。

[翻訳:岡 真理]

このページは パレスチナ情報センター が管理しています。